真実とは「本当のこと」である。
しかししばしば真実は矛盾することがある。
原因は他でもない、ボクラの所為だ。
「AはBだった」というヒトもいれば「AはCだった」というヒトもいて、そのBとCが正反対の性質であることがある。
勿論、そうでないこともある。
スゴイ分かりやすい例では、爆笑オンエアバトルみたいな会場があったとして、お笑いコンビ「バリヤバ」(と言うコンビがいたとして)が芸を披露し、不特定多数の観客がその芸に対して一票を投じ、「面白かった」という票を点数とするような形式。
この形式の場合、観客は1か0かを投票すればいいので、結果は非常に簡潔に出る。
結果435/545KBだとしたらまずまずの高得点で、観客の435人は「バリヤバは面白かった」と言うが、残りの110人は「バリヤバは面白くなかった」と言う。
この時、435人による「バリヤバは面白い」という事象は435人の中で真実であり、110人による「バリヤバは面白くない」と言う事象もまた110人の中で真実である。
この2つの事象と言うか真実は逆であるために矛盾してしまう。
多数決の原理で結論付けをしようとすると、この場合少数派の意見は黙殺されるわけで、客観性に欠ける上に批判が付きまとうことになる。
こんな時は利害の一致を汲んで、「一部には受け入れられないが、なかなか面白い」という結論で収めると、処世術としては好ましい。
よって「バリヤバは一部には受け入れられないが、なかなか面白い」という真実が作られる。
ここで「いーじゃん真実、矛盾してねーじゃん!上手くまとまったじゃんよー!」とか言いたくなってしまう。
大事なのは、導き出した真実が、利害の一致・妥協といった多少なりともネガティブな発送に基づいていることである。
435人は声を大にして「面白い」と主観的に言いたいが、110人の為にいやいや「一部には受け入れられないが、なかなか面白い」と言っている。
110人は声を大にして「面白くない」と主観的にいいたいが、435人の為にいやいや「一部には受け入れられないが、なかなか面白い」と言っている。
本当はそうは思ってないんだけどそう思わざるを得ないという妥協案が、真実の顔をしてのさばっている訳になる。
これは意思決定の方法としては健康的ではない。
しかしこういった意思決定は、ご存知の通り、改めていうまでもなく、日常行われている。
歴史の教科書問題なんかも、互いの歴史に対する主張が食い違い、上手い折衷案も出せずにいる為に、そして妥協して編み出した結論の真実性が疑わしいが為に、なかなか前進しない。
これを健康的に解決する方法は、「群れる」事である。
「AはBである」と信じて疑わない同士を募りグループを結成することである。
そのなかでそのグループ内においては、個人個人健康的に好きなだけ議論をすることが出来る。
それは政党であり、宗教であり、法人であり、集会であり、部活であり、チーマーである。
ボクラが真実だと思って信じて崇めていることは、そういうものです。
何かが起こって、それをDさんとEさんが見てて、「こういうことが起こったよね」って確認しあっても食い違うことがあるのは、互いに視点・考え方・立場が違うために起こることで、起こって当然です。
だから「あの時本当は何が起こったのか」とFさんがDさんとEさんに尋ねたとき、DさんとEさんの答えが食い違ったとしても、DさんとEさんが言ったことは間違いなく真実なのです。
まぁもちろん常に媒体を用いて場面の記録が行われていたとか言う条件に担ったら話は変わってきますけど。
その場合はその記録媒体の中身を閲覧した個人個人の主観が真実で、それがまた矛盾してたりするもんです。
残念ですね。
今日は昼おきて(やっぱり汗かいてた)シャワーして洗濯して母校の学食で食べてお茶して帰って古着屋言って喋ってたら前付き合ってた女の子の知り合いの女の子の妹の女の子の友達の女の子に会って下北沢行ってera行ってライブ見て帰ったら終電が通勤特急で最寄り駅の人駅前で降りてかわいい女の子とメールしながら30分あるいて帰った。