sox diary

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最近の「どこからでも切れます」は結構どこからでも切れます。

 以前矛盾を表すのに良く使われた定型句、「「どこからでも切れます」はどこからも切れない」みたいのがありましたよね。
 最近納豆に付属の醤油とか、あんがいどこからでも切れたりして素晴らしいなぁ、と思います。
 で、何が言いたいかというと、ただ単に先入観と偏見はボクラの視野を狭める因子としてとても大きい、ということ。


 貴方が何か行動を起こそうとする時、先ず経験則や伝聞推定から形作られた先入観によって行動が制限されてしまうことが往々にあります。
 例えば、「あのヒトはアニメオタクなんだって。気持ち悪いから無視しよ」とか、「あのヒトは何にも趣味がないっていうから、深みのないヒトだ。相手にしてもしょうがないや」みたいなね。
 そうやってジャンル分けして環境を整理することは、生活するのに便利かもしれんが、モノの本質に迫る事を怠るに等しいのかもしれません。
 十分に吟味した上での対象に対する判断は尊重されるべきかと思いますが、そうではない判断って正確さを欠いているし、せっかくの機会を逃しかねないのでは、と考えています。


 だから「どこからでも切れます」と書いてあるがどこからも切れないと思って馬鹿にしていると、科学の前進に気付かず意外といろんなところからでも切れることを知らずに過ごしてしまうかも…。
 「どこからでも切れます」はまぁイイとしても、身の回りの技術は常に日進月歩で、貴方の気づかないどこかで誰かの努力の積み重ねにより技術は改善されていくのです。


 こないだ中国からいらっしゃって日本の企業で働いてらっしゃる女性の方がおっしゃっていたのですが、日本の会社の中ではとにかく定時、あるいは上司が残っている時間まで帰らずに残り、その上司に対する気遣いや労働ともいえない労働時間が評価の対象となり、その概念はいささか理解し難い、との事でした。
 上司への気遣いが全く理解できないわけではないが、家事や勉強などに費す為の自由時間の確保をしたい、ということをおっしゃってました。


 ヨーロッパなどの企業は時間になったら仕事が途中でもさっさと帰る、というようなことを聞いたことがあります。
 日本ではとりわけ残業することが美徳であるみたいな話もあったと思います。
 もちろん現場で働いたことのないボクにはなんとも言い難い話ではあります。
 しかしながら欧米諸国では仕事に対して「生きる目的」ではなく「生きる手段」として当たっている傾向が強く、これは日本の仕事に対する姿勢とは真逆の関係を示しています。
 欧米諸国の考え方をもっと発展させようとしたならば、仕事は生活に奉仕すべきであり、あらゆる作業の簡素化は自由時間を生むための手段なのではないかと言ってもイイのではないでしょうか。


 上述の例では、「日本の会社では上司の気遣いで労働時間が無駄に長引いてしまう」というテーマが問題です。
 これを引き起こすのは経験則による慣習です。
 部下は部下で、先輩が上司を気遣って「上司よりも早く帰ってはいけない」としているのを学びとり、それを常識として受け入れました。
 上司は上司で自分のポジションが低かったときは当たり前の様にそうしてきたので、そのことに何の違和感も感じないでしょう。
 最初の方で述べた「先入観」の件とは話がかみ合わなくなっていしまいましたが、日本全体でこういった体制は当たり前で常識で慣習に成ってしまっていると思います。
 こうした血流の悪い会社の体制を外から客観的な視点で見たとき、やはり違和感を感じてしまうのではないでしょうか。


 ていう意味のないコラムは置いといて日記ー!
 朝起きたのですが体がだるくて動けませんでした。
 まだ風邪っぽい!
 もしかしたら今流行中のはしかかも!
 それでも仕事探しと食料買いに出掛けなきゃと思い、ついでにインターネット料金払いに外でたら、カンサイにあった。
 で何故かカンサイとスタバであれこれ採用情報誌見ながら話したけど、カンサイの垂れ込み採用情報の方がオイシイかもなぁとか思い。
 別れて食材かって帰る。
 なんか途中からふらふらしてました。
 んで帰って少し休んで飯作る。
 その間ちょっと出掛けてmush recordsと& records共同主催のo-nestでのライブのチケッツを買いに行くために、お金を下ろしに行く。
 したらハラ君にあったよ!
 世の中狭いなぁ。
 で無事ライブのチケッツ買って帰る。
 飯食らった後、やはり髪型とヒゲがあかんなぁと思ったので、断髪・断髭。
 2歳位若返ったのではないかと。
 なんか気持ち悪い。