滅多に鏡を見ないので気付いたらボーボーだったりします、soxです。
毛に関してはいろんな部分でズボラなので困ったものです。
ボクも数年経ったら毛むくじゃらになるのでしょうか。
今日は仕事でした。
土曜日で人数は少なかったのですが、既に結構作業は進んでいたので気楽に働く。
週末のスポットさんてのは結構他で仕事を持っているヒトが多くて、そういうヒトって飲み込みが早い。
というか理解力が高いから兼業できるのかな。
平日いらっしゃるスポットさんの場合だと、どうしても単純作業の手伝いばかりさせてしまうし、意思疎通を図るのがどうしても難しいことあったりするのです。
いろんなヒトがいるんですね。
仕事上がりは例のnakedていう津田沼の古着屋で話し倒す。
いや服も別に欲しいんですけど、話が楽しくて服を観ている暇が無い。
そんなんでイイのか。
来年6月はアメリカに行くかも。
nakedのおっさんと別れてから津田沼ジャスコで買い物。
紳士服とか着れる様になりたいのだけど、値段もサイズも相応しくない。
紳士服じゃないけど1980円でストレッチジーンズとか売っていたから、そういうのは仕事着にイイかも。
あとasicsの靴が半額7,000円位まで下がっていて、もう現品限りだから欲しくなった。
と言いつつ、食料品だけ買って帰る。
久々にバナナ買えたよ。
帰宅後チャーハンを調理。
ジャスコで買ったクレソンを混ぜてみたけど、これ美味しいですね。
栽培するつもりでもあったので、早速コップの水に浸して根を出させる。
その後http://chapel.vivian.jp/mt/archives/200510/13-003350.phpを観たりして過ごす。
「障害」てのは、ボクの手持ちの辞書によると「邪魔になるもの」だそうで、多分「ある特定の事柄に対して、問題として憚(はばか)るもの」と言ってイイのだと思います。
しかしながら社会的に「障害」と向き合うと、「ある特定の事柄に対して、問題として憚(はばか)るもの」の前に「客観的主観に基づき」という前提を立てて、差し支えない筈です。
何が言いたいのかと申しますと、「障害と普遍は表裏一体」だと言うことです。
たとえばある集団内に於いて「増殖能力」が普遍である場合、その「増殖能力」が無い個体は障害を持っていると看做されるわけですが、逆に「増殖能力を持たないこと」が普遍である場合は、その「増殖能力」は集団に対する過剰な働きとして障害になるのです。
つまり多数派か少数派かによって、1つの能力が「障害」になったり「障害」でなくなったりするのです。
だから肉体的であれ精神的であれ、ある個体が集団に対して特殊な性質を持って問題として憚る場合、それは「障害」として認識されるのです。
そして、現実では完璧な人間などいないことから、ボクも貴方もこいつもあいつも、気になるあの子やあのアレも、立場によっては「障害者」となりうる可能性があり、差別的な観点から「あいつきめぇ」とか言われてしまうわけです。
というか今日そういう差別的な観点を持つヒトがいたので、そういうヒトに対して「皆変わんねぇよ」という答えを導き出して見たかったのです。
「誰彼に対してどう接する」かは個々人の自由がありますが、「誰彼に対してどう接するべき」かは貴方の意志次第であり、それは因果応報なのです。
ということを考えたりしていました。