どちらかというと理系脳、soxですすすすすすす。
抽象的に考えるよりも具体的に考えるほうですね。
ボクの脳味噌はボクに「言葉とは概念だ」とか「事象は概念という関数を経て理解される」と教え込んできます。
という訳で長い上にどうでもイイ事を書こうと思うのですけど、その前に1日の出来事を書こう。
猫と寝た時点でもう夜中3時をまわっていて、それでもなかなか寝付けなかった(よく考えたら薬飲んでなかった)けど、体を休ませることを念頭にずっと布団の中にいました。
気付いたら数時間は気を失って、でもとても朝早く目が覚めていたから、周りにいた猫たちと戯れていました。
そしたらパパさんママさんなど目を覚ましになられて、しばらくしてからお風呂を入れてくださった。
お風呂上りはヒカリちゃんも目を覚ましていて、ボクは家族と話しながら再び猫と戯れていたのです。
そうするうちに家族と長い付き合いであるらしいイチロウさんという方がいらっしゃって、それからコウちゃんが起きて、遠くに住んでいる長男さんとskypeでテレビ電話が行われて、朝御飯が振舞われるという。
その間もボクはニャンコたちと遊んでいて、とても気持ちよかった。
ボクの家族は何故か全員ニャンコ好きではなかったので、昔からニャンコと関わることは殆ど無かったなぁ。
猫飼いのヒトの家に行っても、専属家猫はとても警戒心が高くて全然近寄りがたかったし、こんな初対面なのに膝の上でゴロゴロいって寝ちゃいだす存在は、萌えざるを得ない。
祭りに出向く時間になって、皆さんで成田山に向かう。
コウちゃんは寿bandのメンツと打ち合わせって感じで、ボクはコウちゃん以外の面子とダラダラ過ごす。
お昼からビールをいただき、とろろうどんも食べさせていただく。
とろろを食べるのはかなり久しぶりだと思うけど、やっぱり美味しいなぁ。
そんで家族の皆さんと喋っていたらステージの時間になって、演奏が始まる。
昨日のライブで出演していたgoomiのba.の女の子も来ていて、軽く挨拶。
途中でカフェイン血中濃度低下を感じたので補給しつつ、演奏を楽しませていただきました。
その後は三味線奏者として世界的に有名らしい佐藤通弘さんの演奏で、祭りが締めくくられました。
それから祭りの演者などで打ち上げが行われるということで、お茶を濁すわけにも行かずお暇させていただき、帰宅。
とにかく「ボクはなにをやっているんだろう」という2日間でした。
たまにはこんなのもいいかなぁ、と思うし。
むしろ毎日祭りでなくても、いろんなヒトと会って交流を楽しむのは凄く良くて理想。
しかし祭りでのoffline状態で、myspace関連のメールが携帯に飛ばされて来ていて、いろいろ調整をしなきゃなぁとか思っていました。
myspace friend request承認してくださった皆様、この場を借りてお礼とさせていただきます。
さて話は変わって、どうでもイイ話。
学問というのは、身の回りの当たり前のことを疑問に思うことで始まるのだ、と思っています。
ボクラは五感で感じるものを、それそのままに感じております。
しかし極端な話、暑い時期と寒い時期があるなぁと思ったことから始まって宇宙観という概念ができ、宇宙へ飛び立つことができなかった時代にそれを証明して、今はそれが当たり前。
だから学問というのは、目の前で起こる現象を概念として捉えるための行為、と言えるかなぁ。
そして学問を用いて身の回りの様々なことを掘り下げれば掘り下げる程、結局身の回りの様々なことはそれ自体以外のなんでもないとしか言いようのない、極めて抽象的なモノになる。
文章が矛盾している気がしますが。
例えば、青いカバーの本があったしてそれは見る限り青色なのですが、厳密には青いかどうかわかりません。
実際のところ、本の青いカバーは430〜460nmの波長の光以外を吸収して、430〜460nmの波長の光を反射しており、その430〜460nmの波長の光を網膜上の錐体細胞が認識して青いという情報を脳味噌に返すことで青く見えるのです。
だから色覚の仕組みの違う蝶々とかが青いカバーの本を見ても青く見えるかどうかは分かりません。
人間同士であっても、個人個人で微妙に特定の波長の光に対する感度が違ったりして、全く同じ色が見えているかどうかは分かりません。
ボクなんかは第2色覚異常だかなんだかなので、緑色の見え方が普通のヒトとは違い、茶色とモスグリーンが同じ様な色に見えるのです。
原子論的に物体を見れば、物体は原子とそれらが化学結合した分子の集合になる。
量子力学的に見れば、それは対象の状態の重ね合わせで動的なものだとされる。
モノの見方で対象そのものが(多分)根本的に変わるのです。
そういう物体に対する考え方は「モノとは一体なんなのか」ということからスタートしていないこともないのですが、その考え方はいくつかの方向へ応用させやすいように作られています。
例えば1秒って結局どんくらいの長さかっていうと、メソポタミア文明のヒトが「月の新月から満月の周期が30日間でそれを12回繰り返したとき1年経っている」てことに気付き、そこから発展して「1日の1/86400が1秒」ということです。
86400てのは24×60×60で、当時は12進法とか60進法の方が扱いやすかったから。
でも1日…というか地球の自転周期は不安定なので、「1秒とは、セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間」ということに国際的になりました。
不安定なモノを基準にするよりも安定なモノを基準にしたほうが、理想的で扱いやすい、ということです。
じゃあ「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期てどれくらい?」と問われれば、「1秒の1/91億9263万1770だよ」と答えればいいんじゃないかなぁと思います。
その定義の先を知ったところで、世界の見方が180度変わるわけでもなく、結局目の前にあるものは然として変わらないのが真理なのですから。
同じ様に1mも昔は地球1周の1/4万とされて、でも不安定だから基準とするための原器が作られ、それよりももっと確実に不変なモノとして定義するために1mを1秒に光が進む距離の1/299792458ということになったわけです。
だからって義務教育で学ぶことは何も変わらず、目の前にいるニャンコは可愛くて、単位とか何とかはどうでも良くなってしまうのです。
ボクが学んだ神経生物学では、「猫は大脳新皮質が発達していないから本能で行動しており、だから誰々が好きで甘えてくるということはないのだよ」と学びましたが、それでもニャンコたちと接していると「どうでもイイ」と思ってしまうです。
何が言いたいのかよく分からなくなってきたのでこの辺で終了します。
ああちなみにボクは物理学は全く素人なので悪しからず。
そういえば24日に小岩eM SEVENに出演するので見に来てください。
見に来ないヒトにはxxxします。